日本の建築は、大きく寺院・神社、住宅、城郭に分けることができます。
ここでは住まいとしての建築の移り変わりにしぼって見ていきたいと思います。
住まいとしての日本建築の歴史
縄文(じょうもん)時代、人々が洞穴などの生活から、竪穴(たてあな)式住居と呼ばれるものに住み始めるようになりました。
地面に穴を掘りそこに柱をたて、そこに屋根をかけて、十数戸で集落をつくっていたといわれています。
縄文時代のおわりには、雑穀(ざっこく)などを栽培しながら定住し、稲作も始まっていたと考えられています。
竪穴式住居は縄文時代だけではなく、奈良、平安時代のころまで一般庶民に使われていたようです。
弥生時代になると、高床式住居もみられるといいますが、稲作のための倉庫として使われていたか、それが住居としても使われていたのか明確ではないようです。
庶民はこれから長い間、竪穴式の住居に暮らすこととなり、土間を使う生活が長く続いたそうです。
寝殿造の誕生
平安時代(794年から1185年)に、貴族の住宅として、寝殿造りが誕生します。これは必ずしも居住性を重視したものではなく、儀式や饗宴を行うための建物としての役割が強かったといわれています。
そのつくりは、住宅の中心に「寝殿」があり、寝殿の東西、北側に対屋(たいのや)を配置しました。それぞれが廊下で結ばれています。東西の対屋(たいのや)からは南に廊下がのびて、釣殿と呼ばれる池を臨む建物があります。
寝殿や対屋は板敷きで、天井もなく、最大の特徴と言われるのは、建物の周囲に蔀戸(しとみど)をめぐらせているほかには基本的に間仕切りがない、閑散とした空間だったということです。
絵巻物などに残る情報からは、障子などの建具や、衝立(ついたて)などを必要な箇所において使い、寝室部分と開放的に使用する部分を使い分けていたようです。
寝殿造りの最大の特徴は、「上品で繊細、さらに自然との調和」を重視したものでした。障子で仕切られた建物では、外のあかりを取り入れたり、風も感じられたでしょう。まさに自然を感じながら過ごす空間といえます。
武士の台頭と書院造
中世を通じて徐々に変化し、鎌倉時代(1185〜1336年)になり、武士が台頭するようになると、接客の儀礼を重要視した様式として、「書院造(しょいんづくり)」が登場します。
書院造の様式は、「座敷」、「生活の場である部屋」、「台所」、「玄関」などから構成されていました。
通常、「表門」をおき、その内側には「広場」、表門に相対して「玄関」が配置されます。座敷には「床の間」があり、「茶室」をもった家屋もありました。武士の住まいは、その後の日本の住宅の原型ともいわれています。
武家では、多くの武士と対面するようになるにつれ、広い対面の場が必要になりました。その広間を飾るための座敷飾りも設けられるようになっていったようです。
座敷飾りは、「押板(おしいた)」、「違棚(ちがいだな)」、「付書院(つけしょいん)」、「帳台構(ちょうだいがまえ)」からなっています。
主室となる部屋は畳敷きで、明るさを取り入れるための明り障子(あかりしょうじ)や襖障子(ふすましょうじ)などの引き違いの建具も使われるようになりました。それにともない柱は、丸材から建具のおさまりのよい角材へと変化します。
彫刻欄間や天井や壁面への装飾など、室内デザインも発達してきます。
もともと書院とは、出文机(だしぶみづくえ)といって机を作り付けにして部屋の一角を縁側に突き出し、正面には明り障子をいれたものが変化したものです。
【竿縁天井】
現在も和風建築に残る床の間、角材や長押、竿縁天井もこの書院造の名残です。
茶の湯の影響
書院造が発展した時期は、茶の湯がさかんになった頃で、上流武士の間では社交手段のひとつとなっていました。
現存最古の茶室は妙喜庵待庵(みょうきあん たいあん)で、千利休がつくったとされています。(ここには写真はありません)
広さはわずか畳二畳と次ぎの間一畳で、部屋は土壁、窓に明り障子。柱には皮付きの面皮柱(めんかわばしら)を用いた杮葺(こけらぶき)屋根の素朴な形式でした。一般の民家から取り入れた手法によりつくられたといわれています。身分をもちこまず、隔絶された世界をめざした建物なのですね。
また、庭には能舞台を組み立てることも多かったのもこの時代です。
その後、書院造の住宅に、デザイン的に少し違ったスタイルがあらわれます。これが桂離宮に代表される数寄屋造(すきやづくり)です。
数寄屋とは茶室のことで、柱は自然の丸みを残した面皮柱(めんかわばしら)、土壁、板硝子、雪見障子、釘隠や引き手などもデザイン性が高く、洒落たものが多く、趣深い雰囲気を作っています。書院造りに茶室の要素を持ち込んで変化した建築スタイルといえます。
日本の建築は書院造から始まる座敷のある空間から数寄屋造へとう流れと、一方で「民家」という流れがありました。
民家といっても、農家、町屋(まちや)、武家住宅でもそれぞれの特徴があるといえます。
町屋というのは、民家の一種で店を併設した住宅で、中は土間で、屋根や板葺きのスタイルです。
農家の住居
民家の流れの中で、農家の住居は、屋根は草葺や石で重石をした板葺き、曲がり木がうねり、縄文時代のような骨太な空間に近いといわれます。
竃(かまど)や囲炉裏(いろり)があり、そこでは炊事が行われるだけではなく、暖をとることにも使われました。
大勢の人工の手が必要な上流階級の家屋と違い、地域の住民でつくりあげたため、民家は、地方ごとに独特の形態をとり、その土地の気候や風土に応じた外観を示すものも多くなります。
人と馬が同じ屋根の下にくらしたL字型に曲がったつくりの南部の曲家(まがりや)や、飛騨白川や越中の五箇山にある合掌造、これは屋根裏を養蚕の部屋として実用的に使ったものです
茅葺屋根
屋根を葺く材料も地域によって変わり、地域ごとの農家の雰囲気の違いにもなっています。
日本の住まいとしての建築の流れをみてきましたが、昔から日本の家屋は、自然と共に生きていくという考え方があり、西洋の建物との違いは、室内と屋外の境はあいまいだということです。縁側や障子などにより、家の中でも外の光や風を感じられるようなつくりでした。今の日本の住居は機密性が高く、断熱効果もあり、とても便利にはなったとは思います。
それでもたまに文化財となっているような古い建築を訪れると、クーラーがなくてもなんとなくひんやりとして気持ちがよかったりしますね。たまには、豪農の館の縁側で足を投げ出してのんびりしてみるといいかもしれません^^